・・・というのが、私の人生のポリシー。日本だと「それは間違っている」とか言われがちですが、知ったことではない。
世の中にはどうも「嫌なこと」があんまりない人もいるようで、うらやましい限りです。わたしは「嫌なこと」が山のようにあるので、その余波でできなくなる「好きなこと」も沢山あるんですが、そこはそれ、心を鬼にして。
おしまい。
・・・というのが、私の人生のポリシー。日本だと「それは間違っている」とか言われがちですが、知ったことではない。
世の中にはどうも「嫌なこと」があんまりない人もいるようで、うらやましい限りです。わたしは「嫌なこと」が山のようにあるので、その余波でできなくなる「好きなこと」も沢山あるんですが、そこはそれ、心を鬼にして。
おしまい。
以前在籍した会社で、辞職する同僚が社長に一言、「僕の人生が200年あったら社長に少しは付き合っても良いですよ」。
有限時間の人生を他人に「べき」論で語られても、納得できませんよね。
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残念ながら日本では「好きな事を諦め」ても「間違ってる」とは言われない感じがしますけどね(笑)「嫌な事はしない」というポリシーを貫くのはカナリ大変でありますが・・・・あ、いや、最近では「好きな事をやりなさい」もメッセージとして教条的になりつつあるんで、「間違ってる」って言う人もいるのかな?
集合論的ヘリクツを言うと、「諦めることはどうしてもしたくないほど好きなこと」を諦めるのは明らかに「嫌な事」なので、「嫌な事をゼロにする」方向で動けば、「やってみたいなと思ってたけど大した欲望ではなかった」的なのをスッパリ捨てるだけの話で、結局「好きな事全部やる」=「嫌な事全部辞める」になる感じがします。僕はそれ目指したい派ですね。
嫌な事減らす方向で動いた方が、「好きだと思ってたけどなんか変な意地だとか見栄だとかそのへんのモンだった」的なものに惑わされない分、核心を突きやすい感じがします。
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アメリカでも「それは間違ってる」と言われがちでしょうそれは。
まあそれはそれとして、CHIKAさんと同様、どうしても嫌なことをしなきゃいけないなら、好きなことはあきらめるのが一般的でしょう。おおかた人間は好きなことと嫌なことを比較して動くかどうか取捨選択しているんでしょう。嫌なことでも大きな見返りがあればねぇ
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「嫌な事」は僕も回避しがちです。
いやいややるのってスマートじゃないですよね。
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なぜこの文脈で「日本では云々」が出てくるのかな?また、そんなのケースバイケースでしょうに。
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話が抽象的過ぎてわからないです。 嫌なことって何ですか? トイレ掃除? ベッドのシーツ替え? それとも、公衆の面前でのプレゼン? 自分が嫌だと思ってても避けて通れることってあるのかなあ? よっぽど孤立した生活をしていない限り、出来ないような気がします。 私はそのほうがいやだなあ。
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好きな事でもやってるうちに、嫌になるときもある。
嫌いな事でもやってるうちに、好きになってくる。
どちらも良くあるパターンだと思います。
Chikaさんの仰るように嫌な事をしないで済むには、好きな事を転々と変えていくor初めから何もしない、という理解でO.K.?
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chikaです
>有限時間の人生を他人に「べき」論で語られても、納得できませんよね。
納得以前に、寄る年波で、「べき」と言われても、体が動かなくなりましたw
>「好きだと思ってたけどなんか変な意地だとか見栄だとかそのへんのモンだった」的なものに惑わされない分、核心を突きやすい
ああ、これは言いえて妙かも。本当に自分にとって大事なものが見えてくる感じはありますね。結果論ですけど。
>アメリカでも「それは間違ってる」と言われがちでしょうそれは。
そうですか?アメリカは、多くのことに関し、「あなたは間違っている」という人の比率は少ないと思うんですが。土地柄にもよりますが。
>嫌なことでも大きな見返りがあればねぇ
大きな見返りがあってもダメです、わたしは・・・w ふぅ。
>なぜこの文脈で「日本では云々」が出てくるのかな?
なぜなら、私が日本でそういうことを言われ続けたからです。サンプル数1ですがw
>話が抽象的過ぎてわからないです
それが味噌です。
>好きな事を転々と変えていくor初めから何もしない、という理解でO.K.?
うーん、確かにいろいろ試してみないと自分が何が本当に好きで何が耐え難く嫌かわからない、ということはありますが、転々と変えていくというより、手を変え品を変え落とし所を探しているうちに、だんだんとフォーカスが定まってくる感じでしょうか。
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これ近いす。
“ ステーキ食べて嫌な事してるより コッペパン食べて好きなことしてる方がいい”— 志村けん
http://dtybywl.tumblr.com/post/199099742
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私も嫌なことは、基本的にしません。で、どうしてもやらなくてはいけない事だと思ったら、自分がやる以外の手を考える。たとえば自分の家の掃除がいやだったら、人を雇うとか。
アメリカでも日本でも、嫌なことをやらなくてはいけない場面はあると思うけど、私が嫌がっているなーって思ったときの相手の反応は違う気がします。日本だと、武士道的禁欲精神というか、「嫌なことこそ頑張ったら、成長できる。」とかそういう説得になる。雑巾がけが、弟子の修業の一部だった伝統の名残ですかね。
アメリカだとpositive thinkingで、「やらなくてはいけないことは、実はそんなに嫌なことではないんだよ。」っていうノリになる。例えば、「掃除をするプロセスは、ホコリとかたって嫌だろうけど、掃除が終わったあとのピカピカの部屋で、のんびりおいしいワインを飲んでるところを想像してごらん。」とか :-)。で、それでも駄目だったら、「あなたのお金なんだから、もちろん掃除の業者を雇ってもいいんじゃないの。そんなことに罪悪感もつことないよ。」っていう感じで励ましてくれる。少なくともそれが良き友達がすべきことって思われている。
でも問題は、経費を共用している職場とか、夫婦とかでしょうね。お金が沢山あれば問題ないけど、無い場合はアメリカでも日本でも、やりたくない仕事をめぐって、様々な駆け引きが行われているんでしょう。少なくともアメリカの私の職場ではそうだし、日本でそうでないっていうことはありえないんじゃないかと思います。
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「日本だと」ではなく、「人間だと」にして下さいな。
チンパンジー、要求に応じて手助け 京大が解明
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20091014AT1G1400M14102009.html
それに、アメリカで好きに振る舞えるのも、日系人部隊などが血を流した成果でしょう。
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僕も嫌なことはやりたくないということで、今まで50年やってきました。
例えば、幹事をやること。それが嫌で、やらざるをえないような場合はその会合には(趣旨やメンバーは素晴らしいのですごく参加したい会合でも)参加しない、というようにしてきました。
結果として、人との付き合いの幅や世界が、かなり狭くなったと思います。でも、後悔はしてませんね。
「嫌なことをする時間」を別のことに使えましたから。
今まで、そういう方針でやってきて、すごく良かったと思ってます。
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どうも自覚してなかったんですが、
嫌なことはやりたくないというよりは、恐怖症というか、逆立ちしても、生理的にどうしてもできないので、具合が悪くなって文字通り卒倒してしまうか、パニックに陥ってむちゃむちゃな事態を招くので、誰も強制してこないという・・・て、よくよく考えてみたら、私はチョーお得な性格??
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ふーむ、好き嫌いって簡単なようで、案外なかなか自分ではわからなかったりしますからね。
そのあたり、chikaさんはビジョンがハッキリしてそうなイメージです。
ちなみにchikaさんは”食わず嫌い”というのはあるんですか?
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これは勝手な想像ですが、千賀さんは小さいときから嫌なことをやり過ぎた、っていうか、嫌なことでも、目的到達のためには出来ちゃった人だったのではないでしょうか? 東大の受験科目結構多いし、私を含めて、優等生って一般にそういう人多いから。でも大学に入ってから、器用貧乏のマイナス面を知り、本当に嫌なことはしないで、でも自分のやりたいことはやる方法を模索してみたら、実は沢山あるんだなって気がついたって感じ?
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あることを「嫌なこと」だと言ったり意識すると、なんとなく「負けた感」というか、後ろめたさを感じます。苦手なものなどない「豪快」な奴でありたいという願望の裏返しでしょうか。実際には「嫌なこと」「憂鬱なこと」はたくさんあります。 あとこれって多分に体育会系的な心持ちだとも思います。キツイ練習を前にした憂鬱と、それが終わった後の充実感、開放感… どっちかといえば「M」なんでしょうね。
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アメリカ人は好きなことばかりやってきたから産業が空洞化して世界最大の債務国になってしまったんじゃないでしょうか。日本人は歯を食いしばって世界最大の債権国を維持しています。アメリカ的自由も素晴らしいと思いますが、どこかで日本的努力と忍耐は必要になってきますよ。
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アイザック・バーリンの自由論を(うろ覚えですが)思い出しました。バーリンは積極的自由と消極的自由を区別しています。「~への自由」は積極的自由であり、個人の生き方に適用すれば、夢や目標に向かって精進する「自己実現」みたいなものです。逆に、「~からの自由」が消極的自由であり、個人に当てはめれば、千賀さんのおっしゃるような「嫌なことはしない」という意味での自由かと思います。バーリンは真の自由主義として後者を評価していたと思います。
「自己実現」の欲求が強すぎる場合、少し間違えれば脅迫観念にもなりかねないですね。自分の能力を超えた夢を抱えた場合は大変、つらいことになります。また、それに対して挫折すると反動で、後輩や若者に対して「現実は甘くない」といった説教ジジイにもなりやすそうな気が・・・
「嫌なことをしない」とは、一見情けないように見えますが、自由に生きたい人にとっては、一番現実的な選択肢なんではないか、と思いました。
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アメリカ人が好きなことばかりをやってきた、って言うのは、違うと思います。アメリカは好きなことばかり出来る(と思っている)富裕者層と、かなりつらいことをやっているのに食べていくのが難しい労働者層が、二極化している国だと思います。そういう意味では今の中国と似てる国。アメリカの産業の空洞化は、先進国と第三世界の関係といった、もっとグローバルな視点から分析すべき問題でしょう。
ただ自分がアメリカの田舎の州立大学の教師をし、ティーチング・アシスタント等を使いながら思うのは、人の個性ってやっぱり皆違うなっていうことです。だからAさんのの好きなことは、必ずしもBさんの好きなこととは、限らない。つまりうまく行っている社会、職場というのは、個人の好きなことが相互補完的に機能し、さらにその相互補完性をお互いに認識し、感謝しあっているような所ではないか、って思います。
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最近は、「(子供たちが)嫌なことをしないですむのなら、(私が)好きなことが出来なくてもよい」という気持ちになってきており、これはうれしいことなのか、悲しいことなのか…。
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