宮崎駿映画

このあたりに住んでいる同年代の日本人3人と、日本から来ている20代半ばの人2人で宮崎駿映画の話になった。こちらの同年代の宮崎駿作品に対する感想は「かなり嫌い」から「ニュートラル」。「かなり嫌い」の一人は、「宮崎駿の最近の映画って、説教くさいからやなんだよね。でも、それを日本で言うと、まるで非国民扱いされる。そういう『宮崎駿が好きでなければならない』という強制的な感じも嫌」と。

ちなみに、アメリカ人の友人の女性が千と千尋の神隠し(こちらでのタイトルはSpirited Away)を見に行った感想。「Chika、あれは日本人にしか良さがわからない映画なんじゃないの?私は駄目。主人公の女の子が全くもってcluelessでいらいらしちゃった。あんなになーんにもわかってなくって、それでもまわりのみんなが助けてくれてなんとかなるなんて、そんな都合のいいことないよね。」と。

やれやれ。思い起こすに私が子供の頃読んだ漫画やアニメは、どれもこれも「クルーレスな女の子が、純真にほのぼのと生きていると、誰かがやってきて助けてくれる」というのだったような気がする。だから、そういうストーリーじゃない萩尾モトなんかがものすごい新鮮に思えて、むさぼるように読んだのを覚えている。もちろん、「純真でまっすぐに生きていれば助けてくれる」という生き方を選ぶ人がいるのは全く問題ないのだけれど、それしかない、ってのもね。世の中「純真人口」を支える「手助け人口」にも限りがあるはず。

ところが、そういうことを言うと、怒っちゃう人がいる。「人間は基本的にはみんないい人なのだから、正しくまっすぐな生き方をしてさえいれば、傷つけあうことなどない。純真でモノを知らないのは美しいことなのだ。」という超性善説の人だ。私は性悪説ではないのだけれど、「人はみんな違う信念や好みを持っている。だから、一人の人間が良かれと思ってしたことでも、誰かを傷つけたり、他の人にとっては好ましくない結果を生み出すことも大いにある。」と思っている。だから、「他人(や自分の周りの状況)を理解しない」で「信念のままに生きる」というのは、自分が傷つく危険があるだけではなく誰かを傷つけてしまうかもしれない、とっても怖いことなのだ。それに、たとえ相手を完全に理解したからといって、相手の信念を自分の信念として受け入れられるわけではない。異なる志向を持ったまま、相手の志向を尊重して、共存する道を探ることはできるけれど。

宮崎駿がいけない、と言っているわけではない。Miles Davisがジャズをアートに押し上げたように、アニメを新しい次元に昇華した素晴らしいアーティストとして尊敬している。自慢じゃないが、子供の頃、フランダースの犬の最終回で、大泣きしたのを今でも覚えている。(母などバスタオルを持って号泣していた)

それでも、宮崎駿が好きな人もいれば、嫌いな人もいる、っていうのが普通なんじゃないだろうか。本当に私の友人が言うほど日本では宮崎駿が神格化されているとしたらちょっと怖い。

宮崎駿映画」への2件のフィードバック

  1. 「宮崎映画現象って、日本のファシズム的な要素が垣間見える瞬間だなぁ」ってブログでぼやいていたら、友達がこのサイトを教えてくれました。とても面白く拝見させて頂きました。
    いろいろと批評を読むと、宮崎駿の描く「女の子」像、「母親」像への批判はわんさか出てくるのに(←私も嫌い)、周囲の友達は皆、宮崎駿大好きで、ちょっとやりにくさを感じていた私です。
    でも、あのアニメーションの映像力とエンタメ力には、普通に感動してしまいます。千賀さんがおっしゃっているように、「それぞれの好みは違う」に加えて、物事は好きな部分と嫌いな部分の融合であると思います。
    距離を置けずに、物語に簡単に取り込まれてしまうところのある私たちだからこそ、そういう認識忘れちゃいけないよなぁ、と日記を読んで思いました。
    ありがとうございました。

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  2. 大変面白い論評ですね。
    アメリカは個人主義社会。「自分の事は全て自分で」という精神。僕もそういう主体性溢れる女性の方が好みです。サン、エボシ、ナウシカ、フィオなんかは特にそうですね。
    千尋はキキから更に能動性を奪った感じの少女。周りにいる人に支えられながら少しずつ1人で立って歩ける様になるタイプですね。確かに僕の好みではないけれど、こういう在り方も非常に大切なのではないかと思います。
    アジア的相互扶助の精神なんですよね。欧米的観点で捉えれば「足りない人間ばかりが得をする」「有能な人に仕事が集中し、負担が増える」システムと解釈されがちです。
    いつも思うのですが、イギリスを筆頭にかつての欧米社会が子供に対して過酷な懲罰教育を課していた原因はこの発想にあるのではないのでしょうか。
    本当は面倒を見てあげる側も成長するんですよね。子育てをした事のある女性や児童教育者なら思い当たると思うのですが、はっきり言ってガキなんて最初はみーんな生意気な小皇帝みたいなヤツです。そのくせ何にも出来ない。
    そういうのと接していく内に僕達の中にある人間的な柔らかさとか、寛容さというものを少しずつ育んでくれるのだと思います。そうして成長した子供達が大人に尊敬の意を持つ。年を取ると相手の苦労が分かりますしね。
    欧米社会は個人主義である為にブレーキ役が人間ではなくルールというシステムです。有名ですが一昔前のアメリカでは家庭ごとに強固なルールを持っていました。家によって全然違います。守れればよし、守れなかったら懲罰。そういう子供は大人よりもルールの方が尊いという意識で育ってるのではないかという気がします。悪いとは言いませんが個人主義の根幹にあるのって他者との分断性なんじゃないかと思います。
    足りない男と可愛くて優秀な女がくっつくみたいな話も男に都合が良すぎて嫌いなんですが、一方でそんな女が男に抱く「この人はほっとけない、私がいないとダメだ」って発想は「私にはこの人がいないとダメ」って感情の裏返しに過ぎないのかも、と思います。
    欧米人は「してあげてる」って意識を全面に出しているから気が付かないだけで実は「してあげてる」「してもらってる」って表裏一体なのかなと思います。
    その上で僕は欧米人寄りな発想の持ち主なんですけどね汗

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