教わるということ

San Joseのピアニスト、Jon Nakamatsuは最近の神童まみれのピアノ業界では異例の大人デビュー。20代も後半になってからVan Cliburn国際ピアノコンテストで優勝、それまで高校のドイツ語の先生をしていたのが、突然ピアニストになった。Jon Nakamatsuは名前の通り日系人。Stanford大学でドイツ学を専攻、両親はエンジニアと秘書という全くもってピアニストらしからぬバックグランドなのだが、実はその成功の影にはJon Nakamatsuが6歳の頃から教わってきたピアノの先生の存在があった、というのがSan Jose Mercury NewsのA Piano Partnership

Jon Nakamatsuのピアノ先生Derryberryは、彼が6歳の頃からずっと教えてきている。今でも彼の年間70回のコンサートの多くに聞きに行く。Jon Nakamatsuは、ベイエリアに戻ってきたら、Derryberryのためにピアノを弾く。そして、Derryberrryは厳しい批評をする。

“She gets to as many concerts as she can,” says Nakamatsu, who performs about 70 times a year, mostly on the road. “I still play for her when I’m home. We discuss programs. She is somebody who I trust musically, like my own ears. It’s like having another set of ears in the hall to get the perspective I’m not getting from the stage. Afterwards, I wait for a knock on the dressing room door. It’s like Judgment Day: `good’ or `bad.’ ”

Derryberryのダンナさんが、Jon Nakamatsuの父親と同じ会社で働いていた、というのが縁でレッスンは始まる。ただし、Derryberryは普通の市井のピアノの先生ではなく、ロシア移民としてイランでコンサートピアニストとしての英才教育を受けた後、26歳で今度はSunnyvale(San Joseの近く)に移民し、ピアノ教師となる。

最初は、6歳の子供のレッスンなどいやだと断り続け、8人もの他のピアノの先生を紹介しようとしたDerryberryだが、説得されて渋々引き受ける。しかし、最初のレッスンで彼女が弾いたモーツァルトのメヌエットをほぼ完璧にリピートして弾けたJon Nakamatsuの音楽センスに引き込まれ、彼女の精魂込めたレッスンが始まる。

最初は週1回、1時間のレッスンが、数年後には週4回、しかも毎回4時間という長時間のものになる。ピアノを弾くのは半分で、残りは、楽譜を読んだり、レコードを聴いて話し合って感性を鍛える、ということに使われる。さらにJonが12歳になると、もっと高度な先生につけなくては、と南カリフォルニア大学の Leonard Stein教授を説得して、毎月一回Jonを連れて飛行機でLos Angelesまで行き、3時間のレッスンを受けさせる。そしてこれが7年間続く。

イラン育ちのロシア移民の先生の薫陶を受けた日系人のピアニストが登場するのが、移民の地、ベイエリアらしいとも思うが、それ以上に心に響いたのは、「真剣勝負でものを教える・教わるということ」。

***

今年の頭に、「水彩画にトライしたけど全然ダメだった」というエントリーを書いた。休暇に水彩画の教科書を持っていって、その通り果敢に挑戦したが、見るも無残に敗退。持って行ったのは、Watercolor Schoolという本。敗退した最大の理由は、「自分が見たものを単純な数色の色に分解して、アーティスティックな画像を再生する」という能力が自分にないことがわかったから。

「絵に描こうと思った対象を限定された数の色に分解できること」
というが水彩画を描くのに一番大事な能力のようなのだ。水彩画では、色を塗り重ねると下の色が透けて見えてしまい、しかもあまりたくさん重ねると汚い色になる。なので、まず描きたい対象全体を
「これだったら、濃い緑、薄緑、紫にオレンジに黄色」
という風に簡単な数色に分解する。そしてそれぞれの色を、一色ずつシルクスクリーンの版を重ねるように塗る。一色が乾いたら次の色を塗る。で、全部の色を塗りおわったらアーティスティックな画像に再構成されました、というのが基本能力。

これができる上で、テクニックとして、ぼかしたり、ぬれたまま色を混ぜたり、白を飛ばしたり、、、というようなことがあるのだが、そもそもは「色分解」が頭の中でできないとダメ。

例えば一番最後のほうに老人の顔を描く、という例が載っている。赤、ピンク、黄色、青、紫の5色をこの順番でビシビシと塗っていく。これに黒と白をアクセントで使って出来上がった絵は、5色しか使っていないとはとても思えないリアルな仕上がり。

また、冒頭には練習問題として、
「目の前のものを白黒だと思って、白、グレー、黒だけで描いてみましょう」
というのがあるのだが、この段階で
「どんなにがんばっても白黒に見えませんです」
という情けない事態に。気合を入れて練習を続ければ少しずつはできるようになるのだろうが、きっと画家の人は、どの色に分解すべきか、分解した結果の色はどこにどれくらい置いていけばいいか、ということが対象物を見た瞬間にわかるんだろう。そしてそのレベルに今から私が至ることは絶対にないだろう。

小学校で水彩画の授業というは山のようにあったが、絵を描くということはこういうことなんだ、とは誰も教えてくれなかった。まぁ教えられたってたぶんできなかったと思う。でも、きっと本当に絵の才能のある子供だったら、「あ、これものすごく面白い!」と思って、実際めきめきとできるようになる、ということがあるはず。語学同様ある年齢までに「色分解訓練」の基礎ができている必要があると思うのだが、小さい頃学校でこういう「本質的なこと」を教わる機会があれば、目が覚めるように才能が開花していく子供の絶対数が増えるんじゃないか。

「教える」ということは「底辺を引き上げる」、つまり識字率を増やすとかいったことも大切な機能ではあるが、「頂点を伸ばす」、つまり秀でた才能を持った人の力を開花させる、というのも大事なこと。

とはいうものの、「自分が教えていることの本質は何なのか」がわかっている小学校教師(またはプライベートで小学生にものを教える人)の数はかなり限られるはず。Jon Nakamatsuのように、偶々ラッキーにも優れた教師に時機を逸せずつけた人は良いが、中々そうはいかない。それを思うと、本やインターネットを通じて一流の人の教え(の片鱗)に触れられるというのはとてもありがたいことだ、と思うのでありました。

(そういえば、小学校低学年の頃、ロウソクの科学を読んで感動して家で一人で実験したな。ファラデーさん、本にしてくれてありがとう、だ。)

教わるということ」への5件のフィードバック

  1. 役割意識を変えてみる

    教育というものを考える場合、師と生徒の出会いの話がでてくる。そして生徒は成功した暁に「この人に会えたから」というコメントをすることが多々ある。教え子が成功して師にライト…

    いいね

  2. 美術教師のさかいです。
    水彩画に一度トライしただけで,描画技能の本質を見抜く洞察力に驚かされました。
    「色分解」は訓練によって身に付く技能です。
    私の場合は「色立体」を自作する過程で獲得しました。(完成はしませんでしたが)
    色彩を白黒に置き換える,言い換えれば光を量として認識する。
    多くの生徒がぶつかり,絵を描くことをあきらめる壁です。
    私はデジカメで撮影しモノトーンに加工した映像をガイドとして生徒に与えています。
    小学生の私に「ロウソクの科学」をすすめてくれた父に感謝しています。

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  3. 「洞察力」については、実は「Watercolor School」が素晴らしかったという説が強力です。今まで全然気づかなかったのに、この本で突如わかったので・・・・。きちんとした画家の手による本のようです。
    なお、「色立体」とはなんですか???

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  4. 「脳の右側で描け」実はこの本、だいぶ前に古本屋をぶらぶら回っていたら見つけて超面白そうなので買ってみました。
    要は「ものを見る」と言うことを脳から科学的に考え、「学ぶことができる機能としての絵を描くこと」を教える本で、分量もあってかなり説得力のありそうな本です。
    中学の美術の先生は有名な画家だったのですが、デッサンのときに「よーく見るんだ。よーく見るんだ。」と「よーく」の部分を深ーくゆっくりした声で言っていて、まるで呪文をかけられたかのように取り付かれたように鉛筆を動かしていたのが思い出されます。中学一年の夏休みにその先生は亡くなってその授業を受けることはなくなってしまったのですが、その先生の「よーくみるんだ」という声は今でもスケッチをするたびに耳に残ります。
    何がいいたいかというと、絵を描く基本と言うのは「とにかくよく見ること」につきるのではないか。と思うのです。色を分解するという話が上に出ていますが、「よーく見ていれば」黄色いバラの花の中にも茶色や、オレンジや黒や緑や黄緑、そしてなんとなくピンクや赤も入っているように見えてくる。蟻んこでもなったつもりで、気がついたら自分が花になっているんじゃないか思うくらい一体化して見つめ続けているときっと色が見えてくると思います。
    ところで色立体というののHPを拝見して言語も色立体に似ているなと思いました。
    たとえばAIUEOの音もフランス語だとAとOの間とかAEの間とか
    AUのあいだとかベトナム語だとAIの間とか、OUの間とか中国語だとAOとかにちょっとRが入った音とか、日本語にはならない微妙な発音が主要な母音になっていたりします。。実際にAとOの間に口を開いてのどの奥、口先、舌などを微妙に変えて音を出していくと無限に音が出てきます。
    この無限の音の出し方によって世界中のあらゆる言語が構成されいると考えると、まるで色立体に似ています。
    一口に赤といってもさまざまな明度、彩度、色相の赤があるように日本語ではアイとしか書き出せない音でもさまざまなアイの音があります。
    言語をひたすら聞くと言うことは、無限に存在する音をできるだけ多く聞きえ分け、その特定の外国語習得のために必要な発音がきっ知りできるようになること。それを色立体になぞらえると無限にある色をできるだけ多く見分けることなのではないかと思います。
    要はよーく聞くこと、よーく見ること。がものすごく大事なんじゃないかと思っているのです。
    おじゃましました。。

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