赤裸々な日本とオタク

今日から社会復帰してOnエントリーを書こうと思ったけれど、時間×気力の積が閾値を超えないので(つまり、疲れているというコトです)もう一回日本で思ったことの思い出しエントリーをさらっと。

日本でいろいろな雑誌に目を通して思ったのが、みんな赤裸々な筆致になったということ。「バカはバカ、貧乏は貧乏、負け犬は負け犬、しかもそれは報われず・損なこと」みたいな、「いやそこまで言わなくとも・・・」という感じの文章がメインストリーム系雑誌のあちこちに。帰りがけに成田のラウンジでみた日経ビジネスも「ダメ社員は、入った瞬間にもうダメ」という「社員の寿命は15年」という特集だったし。

一方で、最近芥川賞を取って話題だった「蹴りたい背中」はオタク恋愛小説。

「赤裸々」の方に話を戻すと、どうも「全員中流社会の崩壊」というのをキーワードとして、「じゃぁダメなほうを底のほうまでじっくり見ようじゃないか」ということなのかも。もしかしたら「全員中流」じゃないなら「全員下流」という論調の一環だったりして・・・・。いずれにせよ、大抵のところ、長く続いたものが崩壊するのはよいことなので、しばらく重箱の隅をつつくように「何が救われないか」について語り合うのもいいのではなかろうか。

「蹴りたい背中」の方は、高校のクラスで友達ができない女の子が、同じく友達ができない男の子に複雑な恋心を抱く、という小説。はっきりいって「オタク」な男(タレントっぽいモデルを好きになって、彼女の顔写真を子どものヌードにくっつけたりしてるような)を好きになる、これまたオタクっぽい女の子(机に紙を細く引き裂いて積んだりする)の話。

それでふと思ったのは、「赤裸々系」では様々な対象が「XXは救われない」とボロクソに言われているが、「オタク」をボロクソに言ったものはないなぁ、ということ。

ここからは勝手な推測だが、「赤裸々系」は実はボロクソに言われている対象者が自分のカタルシスのために読んでいることが多いのではなかろうか。「負け犬の遠吠え」は「負け犬」と称されている人たちがたくさん読んでるようだし。そして、カタルシスが起こるためには、読む側に「指摘されたら確かに救われないところもあるかも、とちょっと痛いポイント」が存在しないとダメなんではなかろうか。しかしながら、オタクはオタクをやめたいなんてかけらも思ってない。そもそも、オタクとは、何らかの突出した趣味を持ち、それをきわめて愛してる人。ということで、趣味を愛することを辞めたいと思っているなら、それはもうオタクではないわけで。

つまり、従来オタクが語られるのは「変なあいつ、ダメなあいつ」という他人を笑うコンテクストであった。今流行っているのは「ダメなボク・ワタシ」という自分を振り返る系。自己反省をする気のないオタクは題材にならない、というそういうことか。

×××

ちなみに「蹴りたい背中」の小説は、恋心じゃなくて、背中を蹴りたいような感情、についてメンメンと語られる。が、これはつまり、相手の中に自分を重ねて見て、で若い年代ゆえ「『自分』は大好き&大嫌い!!」と思っているので、その嫌いなところを相手の中にも見出すから蹴ってやりたい、でもやっぱり好き(だって、『自分』も好きだし)と、そういうことなのではないかと私は思いました。はい。

で思い出したのがアメリカで去年はやっていた、Pinkというオネエチャン歌手のHazard to Myself。
「私は私が嫌い、鏡に移る自分が許せない、私は私にとって危険なだけ(I’m a hazard to myself)、私以外に変身できる薬を頂戴・・・」
みたいな、甘やかな自己憐憫がとうとうと歌われる。(フル歌詞はこちら

最初ラジオでかかったときは、
「け、若いっていいね。わたしゃもうそれどこじゃないっすよ。」
と思ったのだが、ある日聞いていて10代の頃を思い出し、ジーンと来ました。ああ、鼻が丸いとか癖毛だとかまつげが短いとか性格が暗いとか、そういうことでメソメソ悩んでいられた若かりし頃がナツカシー、と。

実はいい歌なんだなぁ、Hazard to myself・・・・。

赤裸々な日本とオタク」への1件のフィードバック

  1. http://blawat2015.no-ip.com/~mieki256/diary/

    「オタクと自己反省は不可分じゃないのか。」
    中略
    「オタクと言う線引きなど無意味と言いつつ、必死に線引きしてるこの自分の姿。なんとも滑稽。ダメなボク。しかし、かように自分を振り返って笑いの対象にしてしまおうとするこの状況が、オタクと自己反省が不可分である事の証明になっていないか。オタク間で展開される笑いの多くは大なり小なり自虐性が伴う。それら行為を楽しむためには自己反省が必須だろう。…行動を変えてないから自己反省していないという結論付けは誤りではないか。自己反省した上であえてその行動を選択している事も有りえるのだから」
    とのことなのですが・・・・・:
    「自己反省した上であえてその行動を選択する」というのは「強い自己肯定」だと思うんですが。
    いろいろなことを自省した結果、「オタク」は「オタクであることをやめよう」とはかけらも思っていない、という意味で「自己反省」がない、と書いたのでした。「自分に関する考察・思慮がない」という意味ではなく。
    一方で、例えば「負け犬」とはやり言葉で呼ばれる女性たちは、多くが「もしかしてやっぱり負け犬状態って止めた方がいいのかも」と思っているのでは、と。そういう意味で、「オタクであることをやめようとは思っていない、堂々としたホンモノのオタクは今のマスコミのターゲットたりえない」と。
    ちなみに、私は自分が割合「オタク」だと思っています。自分の趣味のことを話してたりして相手が引くのがわかることがあります。。。ははは。でも、「オタク」やめよう、とはかけらも思いません。だって好きなんだもん、と。その意味で、「自分のオタク状態に関する自己反省」はないです。全く。
    友人・知人でも「オタク」要素が高い人が好き。やっぱり。オタクっぽいのめりこみがあった方が話が面白い!だから、私としては「オタクを本気で辞めたいと思ってるオタク」は「オタク」とは認めません。そんな人つまんないですよね。
    (とはいっても、なるべくなら会話が成立するオタクの方がいいですが。まぁ、時々会話にならない人もいますけど、あくまで聞き手でも楽しめることも多々。普通の会話の成立しない鉄道オタクの大学時代のクラスメート君(私の通った都市工学科は鉄っちゃんの宝庫)、元気かな・・・・)

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