Where is my gnome

最近、新聞に3センチかける5センチくらいの小さな広告でこんなのが出ていた。
Wanted: My Garden Gnome. Have you seen him? Has red pointy hat. He was taken last week off my front lawn… Call Bill.

「gnomeの人形がいなくなりました。見つけたからはご連絡を」ということで、「なんのことやら、怪しい・・・・」と思っていた。gnomeといっても、Unixのデスクトップ環境のことではなくて、妖精の方です。

広告には、「詳しくはwww.whereismygnome.comを見てください」と書いてあって、そこに行くといかにも素人っぽいつくりのサイトがある。が、ちゃっかり旅行サイトTravelocityの割引クーポンが貼ってある。ということで、これはTravelocityのゲリラ的キャンペーンなのであった。Urban Legends and Folkloreによれば、New Yorkでは、ご丁寧にビラまで配られたようだ。

eCommerceも本格的に成長中だが、競争も激しくなっている。Travelocityもがんばってるのだ。
ちなみに、妖精の人形が旅に出るという”where is my gnome”は、元々80年代にそういういたずらがあって、それをさらに、フランスの小粋な映画、Amelieが、かわいらしいエピソードとして使ったもの。映画では、主人公Amelieが、鬱々としている父親を見かねて、父親の庭からこっそりgnomeの人形を盗み、その人形が世界を旅しているかのように見せかけた写真を父親に送って、父親に旅に出る決心をさせるという風になっていました。はい。

Web Fountain

IEEE Spectrum1月号Winner-Loser-Holy Grail。通信、電力、半導体、交通、コンピューティング、バイオエンジニアリング、の6分野で、2004年を予測して、「勝者」「敗者」「難しいんじゃないの(Holy Grail)」の3つを選んでいる。

(Holy Grailは「達成不可能に近い、非常に困難なゴール」という意味でよく使われる。イギリスのKing Arthur伝説に基づく。King Arthur伝説を全く知らない私には、なんのことやら、なのであるが、Holy Grailの一言だけ理解しておけば、困ることはない(ようだ)。Holy Grailは、キリストが、最後の晩餐で使った杯とのこと。)

コンピューティングの勝者は、IBMのWeb Fountain。去年の9月4日号のEconomistでもFountain of truth?として紹介されていたが、IBMが1億ドル以上の予算を投入、120人がかりで構築するウェブ発掘インフラ。シリコンバレーのはずれのAlmadenの研究所で開発されている。

Web Fountainはインターネット上のぐちゃぐちゃなデータの形式を整えて、さらに適当な単語の属性(XMLタグ)を付加して、より意味のあるサーチや分析ができるようにする、というもの。例えば、”Mount Fuji”という単語が出てきたら、「地理的言及」、「緯度XX」「経度XX」といったタグを足したりする。
(詳しくは、IBMのサイトへ)

ものすごく壮大なプロジェクトである。IBMのサーバ上のデータ量は160テラバイトととてつもなく超巨大。

なお、spectrumの紙媒体のほうの記事によれば、この過程を通じてIBMが発見したことは・・
■ウェブの30%はポルノ
■ウェブの30%は他の繰り返し
■一日に新たに変更されるのは5千万ページ
■ウェブの65%は英語

なんだそうだ。なるほど・・・。

さて、インターネット上の情報に、意味を付加しよう、というのはずっと言われてきたことで、90年代半ばからは、「XMLを使った意味付加」について喧々諤々の討論と、いろいろなトライ・エラーが行われてきたが、いつまでたってもたいしたことはできていない。

それなら、ということで、全世界のウェブサイト(当然形式はみんな滅茶苦茶)を巡回して、力技で整理整頓してしまおうというIBMの力技。もしかして、120人のサイエンティストの裏に10万人くらいインドで雇っていて、人力でタグ付けしてたりしたら笑えるのだが、そういうことでもないようだ。大企業しかできないことを、大企業的にしっかりとやった、という中々見上げたプロジェクト。自分の持ち味を生かして、きっちりとした仕事をしている人や会社を見ると心が洗われるが、Web Fountainはまさにそれ。

知り合いが、IBMで120人の一人としてプロジェクトに参画しているのだが、去年会ったときは、仕事は結構楽しいと、嬉しそうにしていた。ちなみに、Fortuneでは、Web Fountainのことを取り上げてHow Big Blue Is Turning Geeks Into Goldと去年特集していた。うーむ、私の知り合いはgeekしかいないんだろうか。。。。

本日(も)休場・・・

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blogを書く時間がないので、変な絵でお許しを。

「休暇中に水彩画を勉強しようと、テキスト本と絵の具と筆を持って行ってみたが、水彩画はあまりに難しくて断念。仕方がないので、パステルで描いた海と空」

という挫折の賜物です。難しかった理由、については、ちょっと書きたいことがあるのですが、またの機会に・・・・。

Oliver Sacks “Seeing Voices”

休暇中に、Oliver SacksのSeeing Voicesを読んだ。期待通り面白くて、初日に読みきってしまった。

Oliver Sacksは、Robert De Niroが出たAwakenings(邦題:レナードの朝)の原作者でもある脳神経医。様々な脳神経障害に関して、心打つエッセイを書いている。

彼が、他の「文章も書く医師」と一線を画しているのは、その深い洞察力、共感力による。彼の専門分野の「脳」は、思考と感覚をつかさどるとはいうものの、電気信号と化学物質で成り立つ一器官に過ぎない。多くの脳神経関係の本は、その科学的解明に重きが置かれ、とてもドライな感じがする。しかし、Oliver Sacksのエッセーは、単に対象を「症例」として捉えるのではなく、特定の異常・特異性を通じて、さらに一歩踏み込んで、人間の「心」とは何か、「魂」とは何か、といった深みに達しているものが多い。

Seeing Voicesは聾唖者と手話に関する本だ。手話というと、多くの人が単語の羅列だと思っているのではないだろうか。少なくとも私はそう思っていた。
「私」「学校」「行く」「昨日」
みたいな感じ。しかし、全くそうではないことがこの本を読むとわかる。複雑なニュアンスと文法を持った、一つの独立した言語なのだ。

では、そもそも「言語」とは何か。Oliver Sacksは、言語の重要な特質として次の二つを挙げている。
1)言語は、幼少期に取得しなければ、一生獲得できない
2)人間は、「文法能力」を遺伝的に持っている

1)の「言語」は「何らかの言語」という意味。4-5歳までに、全く言語に触れることなく育った子どもは、一生話せるようにならない、ということ。そんな子どもはもちろん殆どいないのだが、歴史上時々「野生児」や「何らかの理由で、隔離され監禁されて育った子ども」などが、かなり大きくなってから登場する。その後、どれほど周りが努力しても、彼らに言語を教えることはできない。彼らは、言語を習得できないだけでなく、抽象的思考そのものができないという問題を抱える。

2)は1)と相反するようだが、そうではなくて、幼少期に周りから適当な言語刺激を与えられさえすれば、人間は必ず文法規則を持った言語を「開発」できる、ということ。その「幼少期の刺激」は、完璧な言語である必要はない、というのがポイント。例えば、親たちはどこかから連れてこられた移民で、全員片言しか話さなくても、その子どもたちは、親の使う言葉を要素として、前置詞や時制といった文法規則をもった言語を勝手に開発する。つまり、人間には教えられなくても会得可能な「内在する文法」がある、ということになる。

(この「人間には『文法力』が生まれつき備わっている」という革命的学説を最初に唱えたのはNoam Chomsky。ChomskyはMITの言語学科の教授で、数多くの言語学に関する本を出しているが、Hegemony or Survivalといったアメリカの外交に関しても影響力のある本を複数出版している。
「わーいChomskyだー、言語学だー」
と、うかつに本を買うと、いきなり9-11の話だったりするのでお気をつけ下さい。いや、それにしても、現代においても、ダビンチみたいに多分野に渡る才能を発揮する人っているんですねぇ・・・・。)

1)から、一つの事実が浮かび上がってくる。それは
「先天的に耳が聞こえない子どもには、すばやく手話を教えないといけない」
ということ。耳が聞こえないために、全く言語に触れないまま、大切な最初の数年間を無駄にすると、一生言語もなく、抽象的思考もない状態にとどまることになる。

「抽象的概念」と「言語」のかかわりの興味深い事例として、殆ど言葉に触れないまま育った聾唖者の子どもが、「名前」という概念を理解したときに、ほとばしるような興味を示す話が本には出てくる。馬、犬、船、といった「モノの名前」はそれ自体が抽象的なのだ。スピッツも、セントバーナードも、ダックスフントも、全部「犬」という括りに纏め上げる、というのは、あまりに当たり前で、私たちはなんとも思わないが、実は非常に高度な知的作業であり、それを基にさらに抽象的概念を構築するための基礎でもある。本には、「モノには名前がある」ということを始めて知った聾唖者の子どもが、あれは何、これは何、と聞きまくる、というエピソードが語られる。「名前」は、その先に深い知的世界が広がる、大切な「扉」なのだ。

(ちなみに、以前も紹介した、自閉症の大学教授Temple GrandinはThinking in Picturesで、「モノの名前」が直感的に理解できない、と語っている。「犬」と誰かが言うと、彼女の頭の中には、今まで見た全ての犬の映像が大量に映し出され、その個々の犬の集大成として「犬」という言葉を相手が使っているのだな、と考えるのだそうだ。このあたり、自閉症の原因が、言語中枢とどう絡んでいるのか考えるのあたって興味深い。)

「親の世代が片言でも子どもの世代では完全言語が出来上がる」ということの例なのかもしれないなぁと思ったのは、以前行ったキュラソーという島のローカル言語。キュラソーはベネズエラの沖合いにあるのだが、ヨーロッパの様々な国から集まった「ご主人様」とそれに仕えるアフリカから略奪されてきた「奴隷」という社会構造が、現在の文化の元にある。その結果、現在キュラソーで話される言語は、「英語+スペイン語+フランス語+・・・」という「ヨーロッパ言語ちゃんこ鍋」状態のもの。ヨーロッパ圏の言葉を一つでも話す人だったら、大体なんとなく理解できるはずだ。これも、きっと、いろいろごちゃごちゃな言語を聞いて育った子どもたちが開発したのではあるまいか。

さて、話を元に戻すと、言語は「左脳」の担当である。一方空間や形は「右脳」の担当だ。では、「手話」という「空間での形」を「言語」として認識する機能は、どちらが担当しているのか。答えは左脳。卒中などで右脳が機能しなくなると、「左」という概念を失うことがある。例えば、その人の左側に物を置いても、それを「見る」ことはできない(というか、そもそも「左」とは何かを完璧に忘れてしまう)。しかし、同じように「左」を失った聾唖者でも、手話だけは、左右両方の領域を全部使って「話す」ことができ、かつ相手が左右全領域を使って「話す」手話を解読することができる。

かように、手話は「手の形のぱらぱら漫画」ではなく、完璧な「言語」なのである。Seeing Voicesでは、手話を与えられずに育つ聾唖者の子どもの悲劇などを通じ、人間が人間らしく感じ・考えるために、言語がいかに重要な基盤となっているかが浮かび上がってくる。

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ちなみに、Oliver Sacksは数年前Uncle Tungstenという自伝兼化学の紹介本を出版した。これを読んで私は
変なのはお前だ、Oliver Sacks
と心の中でこぶしを握り締めた。彼の書く奇妙な症例に勝るとも劣らない、変な生い立ちが語られる。家族・親類はみな医者や科学者。例えば、植物学者のおばさんは、庭にフィボナッチ級数に従った列になるよう球根を植えていて、球根と数学を同時に教えてくれる。mad scientistに近いおじさんは、家で放射性同位体を使った永久時計を作っている。外科医の母親は、14歳のOliver Sacksに、14歳の少女の死体を解剖させる。(Oliver Sacksは未だに独身なのだが、これはそのショックではあるまいか、と勘繰ってしまったり。)

こんな面白い過去を持ちながら、そんなことは一つも書かずに、他人の症例をずっと書き続けてきたOliver Sacks。心から尊敬した。そして、
「私も、自分のことをウダウダ書かない人間になりたい」
と心から思った・・・のだが、やっぱり時々書いてしまう。未熟者なんですなぁ。

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さらに凝り性なネタとしては、The Royal Tenenbaumsに出てくる、Gwyneth Paltrowの演ずるお姉さんの最初のダンナがOliver Sacksのパロディ、というのがある。(多分)。白髪の豊かなあごひげを蓄え、奇妙な知覚障害を持った少年(実はやらせ)を見世物にして稼いでいる学者、という触れ込み。見た目の感じがホンモノのOliver Sacksそっくりで笑えます。

Code Orange

クリスマスあたりから、テロの危険が高まっている。私の休暇中も、キャンセルされた国際便がたくさんあった。テロの危険度は、色分けされた「危険レベル注意報」みたいなもので表示されるのだが、今は一番危ないところから3つ目で「わりとやばいかも」というレベルのCode Orangeとなっている。

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今朝こんな夢を見た。

あちこちで銃撃戦が行われ、爆弾が降る街中をうろうろしている。そのうち、突然自分は実は戦争中の街ではなく、空港にいることに気づく。さらに歩いていると、私のいる場所全体が撮影のセットのような、巨大な作り物であることがわかる。セットは、二つの巨大なドームから成り立っていて、大きなドームの中に、小さなドームが入っているという入れ子構造になっている。

外側のドームは空港のロビーのようだ。そこから内側のドームを覗き込むと、中には大きな街がまるごとセットとして作られ、そこで戦争が行われている。私が最初にいたのはきっとそこだ。しかし、戦争といっても、その場所全体がセットなのだから、そこで行われているのは、本当の戦争ではなく、シュミレーションのようだ。

しかし、シュミレーションではあるが、戦う人たちは真剣だ。
「この世界の人たちにとっては、これが戦争なのだ」
と思ったところで目が覚めた。

起きてからちょっと考えて、「夢の通りだなぁ」と思った。国と国が宣戦布告して、ドンパチ戦う、という一点集中かつ日常生活と切り離された「わかりやすい」戦争の時代は終わって、一体全体、誰とどう戦っているのかよくわからない「テロとの戦い」という戦争の時代になったのだ。でも、今までの戦争と違うから、なんだか「戦争」という実感がわかず「シュミレーション」のような感じだが、これが新しい戦争の形なのだ。

イラク攻撃のような「わかりやすい戦争」も時としては行われるとは思うが、それは全体のごく一部で、これから長いこと、「日常の中に微妙に戦争が入り込んでいる」という時代が続くのではないか。

テロとの戦い、という戦争が長く続くと考える理由は次の二つ。

1)人間は戦争せずにはいられない生き物ではないか、と思うので。
普段仕事をしていても、「誰それは、Aさん側の人だ」みたいな「敵・味方的」「陣取り合戦的」発想をする人がたくさんいるので驚かされる。もちろん、全員がそうではないが、かなり強力な人間の行動原理だと思う。

2)アメリカがあまりに強大になってしまったので、国対国のドンパチ戦争は意味がない。
偉大なローマ帝国と比較されることもあるアメリカの覇権だが、とにかくもう圧倒的に強力だから面と向かって戦ったら勝てる国はない。

ということで1と2を足すと、導かれる結論は今までにないオリジナルな「テロ活動による戦争」ということになる。

あまりにひどいことになると、「こんなひどいことは長くは続かない」と思うのが、人間の常。90年代の日本にも「こんな景気後退がいつまでも続くはずがない。だから近々復活するのでは」という謎の信念があったような気がする。が、しかし、それは甘い。歴史上、何十年も没落し続けた国などザクザクある。

戦争だって同じ。中国の春秋戦国時代なんてなんと500年以上も続いたのだ。中東問題が片付いたとしても、もしかしたら次は中国が火種になる可能性がある。一人っ子政策で男の子を好む親が多いため、男女の人口差が開いてきている中国。このまま行くと、結婚できる見込みのない若い男性が爆発的に増える危険がある。歴史的に、「結婚できる見込みのない若い男性」が増えると、国の政情が不安定になったり軍国主義に走ったりすることが多い。(ヨクボウのはけ口ってやつですね)中国規模の人口の国でそれが起こったらとんでもない。

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テロが生活の一部、というのをさらに実感したのは、この記事

Queer Eyeというテレビ番組がはやっている。(といっても、地上波をアンテナで見ている我が家では受信不能なので、見たことがないのだが。ケーブルテレビが一般的なアメリカでは、地上波オンリーは、日本での「UHFしか入らない」というのに近い。)5人のゲイが、ストレートの男性をおしゃれに改造する、という番組である。「ゲイのメインストリーム化」などと盛んに批評されている。その5人の一人で、ファッション担当のKressleyが、
「オレンジってだめ。オレンジが似合う男っていないのよね」
という、全くもって場違いかつすばらしい発言をしたという話。

「新たな戦時中」の形は、こういうものなんじゃないでしょうか。

新年会

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昨日は、ダンナの会社の新年会であった。10人強のスタートアップである。MITのcomputer scienceの教授がファウンダーの一人なので、若手のエンジニアの多くがMIT出身。上の写真の左から2人めのTimもその一人だが、ある必修のプログラミングのクラスで、毎年課題として出るプログラミングの問題の、歴史上最高点保持者だそうだ。出身はアラスカで、親は金鉱持ちとのこと。「金鉱」というと、日本語だとちょっと間抜けな響きだが、英語でHe has a gold mineというと、「金のなる木を持っている」みたいな意味合いになる。ので、本当にgold mineを持っている、というのはちょっとおかしい。

Timの「プログラミングクラス最高点」というのは、ちょっと色物的ではあるが、これ以外の社員では、もっとまっとうな学問的・起業的実績がある人が何人もいる。Silicon Valleyに免疫のない人は、こういうベンチャーを見て、「おお、すごい会社だ」と思ってしまいがち。だが、しかし、この手のベンチャーはゴマンとある。もちろん、こういうベンチャーでも、失敗する可能性はおおいにある。世の中厳しいのだ。

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年末の休暇で、もっていった本を読みつくしてしまい、宿のライブラリにあったMichael CrichtonのPreyを読んだ。シリコンバレーのナノテク企業を舞台にしたハイテクサスペンス。が、「えー、それは変だよ」と思わせるプロットのアラが結構あった。(が、それでも一気に読んでしまったのだが。さすが人気作家の力技です。)

「それは変だ」の原因は何か。多分、Michael Crichtonは、シリコンバレーのあちこちでインタビューしたのだと思うが、もしかして
「おー、ベンチャーとはこういうものか、すごいなぁ」
と思って、そのまま筆が滑ったのではなかろうか。

登場する企業は、2千万ドル(20億円くらい)をベンチャーキャピタルから調達しようとしているスタートアップなのだが、2千万ドルを集めようとしている、ということは、まだまとまった額の資金調達は1回か2回しかしていないはず。一流の人材を集めていても、やっぱりベンチャーはベンチャー。できないことはたくさんあるのだ。

が、しかし、Michael Crichtonはついつい「一般常識的にすごい大企業がすること」を小さなベンチャーにさせてしまっている気が。例えば登場する会社は、最新鋭の巨大工場を持っている。これから2千万ドル調達するベンチャーには、いくらなんでもそれは無理だと思います。

あと、主人公の職探しを手伝うヘッドハンターが登場するのだが、主人公氏とのミーティングで、すぱすぱタバコを吸い、その煙を主人公の顔に吹きかけるシーンがある。多分ハリウッドで俳優と、そのエージェントが会話しているのであれば、そういう情景はありうるのだろうが、シリコンバレーでは、まず絶対ありません。タバコを吸うだけでも気兼ねする土地柄。煙を相手の顔に吹きかけるなんて、殆ど犯罪行為です。

ダイビング・日本人・アメリカ人

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年末はMexicoのCozumelにダイビングに行ってきた。

CozumelはCancunの沖合いの島で、島の周り全体に強い潮が流れている。そのせいで、透明度は高く、潮に乗って大型のエイが10匹、20匹と群れをなして泳いでいるのに出会える。

大抵、朝7時半くらいにボートで出発、適当なところでドブンと飛び込んで、後は潮に流されながら、洞窟や絶壁などの海底の地形や魚を見る。

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私はダイビングを怖いと思ったことがない。ちょっと心拍数が上がったことはもちろんあるが、パニック状態になったことは一度もない。

まだ初心者で、数本しか潜ったことがない頃、フィリピンの誰も知らない島の沖合いで、ボートから一番に飛び込んだ。一旦水中に沈んだのち再度浮上、水面で周りを見回したら、うねる海面しか見えない。そういう時はすぐ水中に潜ると周囲が見渡せるので、他の人たちに出会える・・・のだが、それも知らないくらい素人だったので、
「もしかして、これで人生一巻の終わり?」
と思いつつ、海面で5分ほどプカプカしていた。そのときも、心臓バクバクという感じではなかった。(単に恐怖で思考停止していたのかもしれないが・・・・)

一方、アメリカ人の経験の浅いダイバーは、すぐパニック状態になる。といっても暴れたりするほどではないが、「心臓が破裂するかと思った・・・」という類の告白をよく聞く。

今回も、ミネソタから来たFredがパニックになっていた。「自分はエアの消費量が多いから」と言って、殊勝にも大容量のタンク(スチールのヤツです)を背負っていたのだが、それでも潜って20分ほどでいきなりエア切れ、他のダイバーから緊急でエアを分けてもらうという事態に。ところが、ヨーク見たらまだ随分エアが残っていた、というおまけ付き。あまりのパニックで残量ゲージの針が見えなくなったんだそうだ。

Fredは建設現場の仕事をしている肉体労働系の人で、超頑丈そう。私が二重に全身を覆うウェットスーツを着て、それでも2本目は寒いというのに、彼はずっとTシャツに海パンで潜っていた。全然寒くないんだそうだ。体力熊系、ですね。それでもパニック。

他にも、テキサスから来たaerospace engineerのDonnyという男性も熊系に見受けられたが、初日いきなり40メートル潜ったら(ダイビングスタンダード的には深い。テニスボールがつぶれるくらいの圧力がある)その後は、見るからに蒼白になり、二本目は早めにギブアップ。翌日彼の奥さんと、彼がいないところで話していたら、実は彼は超怖がっていたことが判明。

この手の話はやたらによく聞く。もちろん、日本人のダイバーもパニックになることは多々あるのだろうが、日ごろ非常事態に強いアメリカ人がなぜにしてすぐ心臓バクバクになるのか。

よくよく聞いてみると、どうもダイビングの教え方に理由があるようだ。アメリカでは「こうしたら死ぬ」ということをコンコンと教えられるらしいのである。
「Judyは、間違って重いウェートを装着したため、ボードから飛び込むやいなや、激しいスピードでずぶずぶと沈んでいって、そのまま死亡」
みたいな「怖い話」をたくさん吹き込まれるらしい。(ダイビングを一度でもしたらわかると思いますが、殆どの場合「なかなか潜れない」のが問題。石のように沈むことなどまずありえません。)

ダイビング雑誌を読んでも「テクニカルレッスン」みたいな特集で、まず必ずといっていいくらい毎号死亡事例のケーススタディが載っている。
「単独で洞窟を潜っていたTerryは、エアの残量がXXしかないことに気づき、激しいパニックに襲われ、方向感覚を失った」
とか。死んだ人の話なんだから、何がどうなったかなんてわからないではないか、、、と思うのだが、迫真の実話(風)に仕上がっている。

一方、日本のレッスンはもちろん、してはいけないことを教わるが、基本的には「怖くないですよー。楽しくやりましょうねー」的な感じが強いような気が。(潜水部、とか、そういう体育会系は知りませんが)ダイビング雑誌は、もちろん「青い空・青い海・ビキニのおねーちゃん」というウキウキ風。

きっとこれは、「すぐ勝手に判断して、強気な行動に出がちなアメリカ人」と「言われたことをジッと守るのが得意だが、なかなか冒険しない日本人」という特性に合わせた教えなのであろう。

今回一緒に潜ったうちの一人は日系3世のPat。Patいわく、ハワイでインストラクターが初心者ダイバーの日本人の女の子を海底に座らせて「ここで待って」と指示し、その場を離れ、そのまま彼女のことを忘れてしまった、という事件があったそうだ。彼女はエアが切れるまでジッとそこで待ち、そのまま死亡。Patは3世といっても、2世はお母さんだけで、お父さんは純粋日本人ということで、日本人気質に詳しいのだが
「死にそうなのに、言いつけを守って動かないのはとってもJapanese」
と。かくいう私も、誰もいない海面でプカプカ5分も浮かんでいた実績から類推するに、「ここで待ってて」と指示されたら、そのまま死ぬまでジッとしていた可能性は大いにある。でも、アメリカ人だったら何らかの行動に出るんだろう。多分。

死んでしまった人に何が起こったかは誰にもわからないが、Patと2人で
「That’s a very Japanese way to die」
と語ってしまった。

一方、アメリカ式レッスンも、たくさんの人をパニックに陥れるほど恐怖を植え込むのは、いくらなんでも行き過ぎのような気もするが、そうでもしないと
「お前が40メートル潜るなら、俺は60メートルだ!」
みたいな無謀な行動に出る人が続出する可能性は大。必要悪ということか。

ところ変われば品変わる。ダイビング一つ教えるにも、相手を知らなければならないんですね。

fish small.jpg
<海の中では愛でられる魚も、陸に上がれはいきなりカラ揚げ。El Naviganteでのランチ。一番上の写真もこれもOlympus4040で撮影>