<日経産業新聞2004年4月20日に掲載されたコラムです。>
悪条件があるところには、それに対処しようとする技術や産業が栄える。アメリカの偉大な悪条件の一つが、個人の所得税申告の複雑さだ。
Death and Taxという表現がある。「死神と税金」、つまり逃れることができないものという意味だ。
「ジョーブラックによろしく」というアメリカ映画で、人間に扮した死神が大企業の役員会議に出るシーンがある。正体を白状しろと迫られた死神は「税務署からきた」とその場を繕う。しかし、役員たちは蒼白になっておののき、「死神だ」と言われたのと同様の反応する。「死神と税金」にかけたジョークで、アメリカの映画館がどよめくシーンだ。それくらい税務署は国民から広く恐れられている。
四月十五日は確定申告の締め切り日だった。アメリカの税金は逃れられないだけではなく、著しく面倒。日本と違って、個人がみな申告するのだが、申告書作成には「一人当たり平均二十八時間三十分」という莫大な時間がかかる。国民挙げての大事業なのだ。
サラリーマンであっても細かく様々な控除項目があり、それを計算するのは手作業では難しい。例えば、教育費の控除だけとっても、四種類の計算をして最適な選択肢を選ばなければならない。また、AMT(代替最低税)なるものを算出する必要がある人も多いが、これだけでも平均三時間半がかかる。
こうした複雑な納税という「悪条件」によって栄えたのが、納税ソフト産業だ。十六億ドル超の年間利益を上げるインテュイット社は個人向け会計・納税ソフトの老舗。ミスが許されない分野で、しかも非常に複雑度が高いという難条件をチャンスとして今に至っている。
そのインテュイットが、オンラインオークション大手のイーベイと手を組んで「中古品の市場価格提供」を始めた。アメリカでは洋服や家具などをチャリティーに寄付すると、その市価が税金から控除できる。その市価を算出するのに、イーベイでの取引成立価格を利用するのである。
二〇〇三年にイーベイで売買された品物の総額は実に二百四十億ドル、二・五兆円を超す。この圧倒的な取引の中から得られた価格を「適正市価」として提供、万が一税務署がその市価を認めなかった場合には、追徴金をインテュイット側が負担する保証付きだ。
「適正市場価格とは、需要と供給が折り合うところ」というのは経済学の基礎だが、現実には中古品の適正市場価格を判定するのは難しい。しかし、莫大な数の人々が少しでも高く売り、安く買おうとしのぎを削るイーベイでは、そうした需給のバランスが日々刻々と現実の取引実績としてあらわれる。今回のインテュイットとの共同事業で、その取引価格は税金控除にも利用可能な精度を持つことが立証されたことになる。
しかし、こんなデータ販売がビジネスになるのも、アメリカの複雑な納税システムのおかげ。「パソコンが高性能になって、家庭でも複雑な計算ができるようになったのをいいことに、納税の複雑さも増している。悪いのは高性能半導体を開発するインテル」などとお門違いの不満を言う人もいるが、実際のところ情報技術(IT)業界側にとってはありがたいことこの上ない。「悪条件」こそ商機なのだ。