超名作:コレラの時代の愛

うぉおお、名作だ。すごい本である。1985年に出版された小説Love in the Time of Cholera。邦題はこのエントリーのタイトルの通り。最近アメリカでベストセラーとなり、かつもうすぐ映画が封切られる。カリブを舞台にした小説なので、カリブの休暇で読みました。ガルシアマルケス著。

さて、すごい本なのであるが、しかし、これを読み通せる人はかなり少ないと見た。なぜなら

  • あまり意味のなさそうな、かつちょっとエキセントリックなエピソードが、50年というスパンでだらだら、ひたすら続く
  • しかも、意外な事実がちょろりちょろりと突然登場するので、読み飛ばすことができない
  • その結果、「一体全体、自分が今読んでいることは、この先の展開に意味があるのか」という疑問が常につきまとい、迷子になったような気持ちのまま巨編を読み続けなければならない

原作はスペイン語ですが、私は英語で読みました。スペイン語だとさらに重厚で象徴に満ちているらしいのでちょっと残念。

実際の本はたいした厚さではないが、読み応え的にはその3倍くらいあるように感じました。久しぶりに体力使って読んだよ。

とにかく「どういうお話の展開か」という筋にこだわって読むような本ではありませぬ。1ページ1ページをじっくり味わい、その微妙な和音、不協和音に耳を傾けるための物語。しかし、そんなことをする気力と時間がある人がどれだけいるかしら、ということで、冒頭の「読み通せる人は少ないだろう」と。

10代の少年少女が70代で再会する話。テーマは、愛、情熱、老い、そして死。肉体的老醜が赤裸々に書かれていて、読み終える頃には、自分も本当に年を取ったような気持ちになれる。(そしてその老醜はそれほど悪いものでもない。) これからの人生で何度でも読み返したい小説です。

で、とにかくそのリアルさがすばらしいのであるが、残念ながら(しつこいけど)滅多に読む人はいないと思うので、以下あらすじと感動のポイントを全面的に説明します。

小説の方を読んでみたい、という勇気ある方、(または、白紙で映画を見たい方)は、以下読んではいけません。(アービングが好きで、トルストイ、ディケンズあたりをエンジョイする方だったら、この本も楽しめると思います。)

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Florentino Arizaは、郵便局につとめる17−8歳の影の薄い男。えも言われぬほど美しい13−4歳のFermina Dozaを一目見かけて電撃的恋に落ち、数多くのラブレターをしたためる。Ferminaもほだされて文通が始まる。二人は、Ferminaの父親の激しい反対にあうが、こっそりと連絡を取り続けて数年が過ぎる。そしてFlorentinoのプロポーズをFerminaが受け、Florentinoと母親は「嫁を迎えるため」と家の改装に取りかかる。

しかし、Ferminaは、恋に恋する乙女でしかなかったのでした。

ある日突然、市場ですれ違う振りをして、面前に突然現れたFlorentinoを見た17歳のFerminaは、自分の間違いに気づく。

In an instant the magnitude of her own mistake was revealed to her, and she asked herself, appalled, how she could have nurtured such a chimera in her heart for so long and with so much ferocity.  She just managed to think: My God, poor man!

その瞬間まで、結婚したら必要な家財道具のショッピングをしていたFermina。しかし、彼女の中でFlorentinoは、間近でその顔を見た瞬間に

「結婚相手」

から

「報われない片思いをするかわいそうな男」

へと転落する。ああ、この乙女心。これこそ乙女の本質。顔を見た瞬間に「相手の全てが全身全霊で嫌い」になるという残酷さ。

この後Ferminaは、すっかりFlorentinoのことなど忘れ去り、彼の記憶があった心の場所には「ポピーの花が咲き乱れるのに任せる」のでした。ポピーですよ、ポピー。しかし、これ本当なんだよねぇ。過去の男の記憶は、たとえ相手から振られた場合でも風化するのが女。ま、個人差はあるだろうが。いわんや、自分から振った男の記憶はポピーの花畑程度のふわふわした風景と化す。マルケスは本当に乙女心がわかっているぞよ。

その後、Ferminaは、21歳で街一番の金持ちの医者と結婚して50年近くにわたり幸せな人生を送る。数ヶ月にわたりヨーロッパに新婚旅行に行き、妊娠してコロンビアに戻ってくるころには、

「私って、世界で一番幸せな女」

なんて思っちゃったりするのだ。その後はダンナの家族との軋轢などいろいろと嫌なこともあるが、Ferminaの人生は、大まかには満ち足りたもの。ダンナは、80代でハシゴから落ちて死ぬが、その最後の言葉は

「僕がどれほど君を愛していたかは、神にしかわからない」

というもの。彼女は、同じことを彼に告げられなかったことを悔やむ。めでたしめでたし。

・・・と思いきや、そこにはFlorentinoがまだ存在していたのでありました。

Florentinoは、Ferminaから紙くずのように捨てられた後、人生をFerminaを獲得するためだけに捧げていたのだ。ゴージャスなFerminaにふさわしい夫となるべく成功者になろうと仕事に没頭し、大手の船舶輸送会社の社長にまで上り詰める。その傍ら、激しく女遊びをし続け622人と関係を持つ。

しかし、一日たりともFerminaを忘れたことはない。そして、必ず自分がFerminaと結婚する日が来ることを疑うこともない。その信念は、ツルッパゲになり総入れ歯になっても揺るがない。

そして、総入れ歯になっても、廊下で女中と無理矢理コトに及んで妊娠させてしまったりする。しかし、女遊びがFerminaの耳に入ることが怖いばかりに、全ての関係は極秘中の極秘。既婚女性とも多々関係を結ぶが、そのうちの一人が、Florentinoとの浮気がバレて夫に殺された時も、

「これがFerminaの耳に入ったらどうしよう」

ということだけが彼の心配。死んだ女のことなどどうでもいいんです。この徹底ぶり。

そして、Ferminaへの不変の愛を(自分勝手に)誓ってから51年9ヵ月と4日が過ぎた日に、Ferminaの夫が死んだというニュースを聞く。毎日Ferminaのことを考え続けていたので、「51年9ヶ月と4日」というのはどこに記録している訳でもなく彼の頭の中に自然に入っている。そして、70過ぎのFerminaがまた独身になったというすばらしいニュースに、いてもたってもいられず葬式に出向き、弔問客が去ったところでFerminaの前に登場し高らかに愛を宣言するのである。

"Fermina," he said, "I have waited for this opportunity for more than half a century, to repeat to you once again my vow of eternal fidelity and everlasting love."

「半世紀以上の間、この機会を待っていました。もう一度あなたに、永遠の貞節と終わりない愛を誓います。」

貞節って、あんたはん622人と関係したやないの、というのは置いておいて、不気味である。不気味。50年も前に振った男が、フガフガのじいさんになって「ずっとあなたを愛していました」と登場する。悪夢です。私がFerminaだったら腰が抜けるぞ。

気丈なFerminaは「出て行け」と彼を一蹴する。

"And don’t show your face again for the years of life that are left to you."

「あなたに残された寿命の間、二度と私の前に顔を出さないで」

さらにとどめで

"And I hope there are very few of them."

「その寿命は、ごく短いといいわね。」

死んじまえ、と言ってる訳です。よくわかるぞ、Fermina。女心を知り尽くしたマルケス。

しかし、その後物語は思いがけない、本当に思いがけない展開を遂げるのでした。

ちなみに、小説では、以上の出来事が何十年もの月日を行ったり来たりしながら、グルグルと窒息しそうに重厚な刺繍のように編み込まれていきます。ダンナの葬式は最初の章。

もしここまで読んで、「思いがけない展開」に興味がある方は、本を買って最後の章だけ読んでみてください。意外な展開がどういうものかはまた後日。

超名作:コレラの時代の愛」への10件のフィードバック

  1. スゴイ小説ですね・・・なんか「グレートギャッツビー」をラテン的に粘りけを出して、かつ巨大さと露骨さをくわえた感じの。
    ガルシアマルケスは、そういう「図式的」なことを、「あんまり図式的説明なしにずっとドロドロと書き続ける得体の知れないパワー」が謎な人な感じがします。経済社会の中で生きてる合目的的人間・・・・ぽい思考法がちょっとでもあると、なかなかあそこまで書き続けるのって大変だと思います。体力がいるっていうか。「ようやるわ」って感じだというか、「なんかスゴイ」っていうか。確かに読むのは暇がないとツライ。というか、チカさんが言うように、「図式」から離れたリアルさを楽しむだけの心の余裕がないとツライ感じですね。
    でもあえて図式的に”男ゴコロ”について言うと、その「恋に恋する乙女の気まぐれ」に人生大の「謎」を仕込まれ、それを解くために巨大なエネルギーを燃やして生きている・・・・男は多い・・・とは言わずとも結構いるような気がします。
    まあ、「象徴的に言えば」ってことでは、「全ての男が潜在的にそうだ」とも言えるかもぐらいですけど。
    その男の人生にとっては、その女性は、本人という個人以上の巨大な意味を持たされてしまっているというか。そんなの女性ご本人からするとウザイでしょうけど。
    でも実際にはそういうのは、叶わないほうがいいっていうか、むしろ問題を適度にすり替えて生きる力に変えちゃうのが良いと思うんですけどね。実際に「形」が成就しちゃったらそこから先絶望するしかないっていうか。それこそすぐ死ぬんじゃない?って感じで。まあ、だからこそこういうお話が生まれるし、それが「さらにその先」を暗示する意味があるのかもですけど。(このへんは村上春樹的テーマに近いと思います)
    でも最後スゴイ知りたい・・・買おうかな。
    でも読み切れないかもな・・・・コメント欄にこっそり書いておいてくださいよ・・・・案外大逆転で成就して欲しいと思っちゃうんですよね・・・男としては(笑)
    長く書き込んですいません。この記事面白かったです。

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  2. 千賀姉さま。
    遠くシリコンバレーからFlorentinoに想いを寄せ続けていらっしゃるのですね。
    お心、ありがたく頂戴いたします。
    Ferminaは、実はあなたかもしれません。

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  3. ガルシア=マルケスはほかの小説で挫折したことがあって苦手意識を持っていましたが、今回は憧れのchikaさんのお墨付き。日曜の朝すぐ図書館に行って借りてきて、その日一気に読み終えました。読了までエントリーの後半も我慢し、今日帰宅してから読みました。
    予想もつかないその後の展開を早く知りたいあまり、ちょっと読み急いだところもありますが、私にも読み返したい一冊になりました。いきなりマルケスの全集買いしたくなったぐらい。
    すぐに読み返すには重たいですが、次は一行一行、かみ締めながら読みたい。読む度に、コレラの時代へさらに深く降りていけそうです。人生において、長く読み継ぐことができる小説だと思います。
    chikaさん、すばらしい紹介をありがとう。お礼を言いたくて、初めてコメントしました。
    皆さんのご参考まで、chikaさんがお見通しの小説家以外では、私はオースター、ジュンパ・ラヒリもすきです。

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  4. ガルシア=マルケスは本当にいい小説書きだと思います。
    私は「百年の孤独」、「予告された殺人の記録」と読んで、特に「予告された殺人の記録」の方は手放しで絶賛!!と思ったのですが、これを機に「コレラの時代の愛」も読んでみようと思いました。
    ちょうど今、日本ではガルシア=マルケスの全小説シリーズというのが新潮社から発売されているんです。
    さぁて。本屋に行きますか。

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  5. chikaです。
    >最後スゴイ知りたい
    うふふ、今度書きます。一言で言うと、Ferminaの指先から永遠が流れ出すのでした。
    >その日一気に読み終えました
    すご。私は、以前「予告された殺人の記録」を結構苦労して読んで、苦労した割にはあんまり思い出に残らず損したような気がしてたので、「コレラ」も、「グルグルドロドロ続いて、それだけで終わっちゃったらやだなー」と、やや不信感を抱きながら読み続けたので、途中ちょっと苦しかったです。
    ちなみに、コレラ・・の直後にJhumpa LahiriのNamesakeを読みました。趣味が合いますねー。Namesake、よい本でしたが、あっという間に読み終わって、Choleraのくどさに比べると、お茶漬けのようにサラサラでした。
    >「予告された殺人の記録」の方は手放しで絶賛!!
    うう、すみません、私こっちは上述の通り「むむむむ」って感じだったんですよね。でも、マルケスの味がわかった気がするので、もう一回読んでみようかな、と思っています。Cholera・・・楽しんでいただけるとよいのですが。

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  6. 突然のコメント失礼します。
    「コレラ」執筆時、マルケスは北米の滞在時間が24時間すら許可がおりなかったと記憶してます。カストロと親友だということで。約20年前くらいの雑誌のインタビュー記事だったと思うのですが。ご本人曰く「芝居を見たり、買い物を楽しんだりしたいだけなのに。」と。

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  7. 素敵なブログが…これについてのより多くの情報があります…本当にコレラ、細菌、ヒトの痛み、水様性下痢で、その結果コレラ菌(コレラ菌)によって引き起こされる急性感染症である。いくつかの影響を受ける個人は、下痢、多量のを持っていると脱水ので、死に至ることも深刻な開発しています。病気を取得ほとんどの人がコレラ菌に汚染された食物や水のソースから生物を摂取する。症状が細菌を摂取後、約1日から5日以内に大量の下痢を開発する約5%、以前は次の健康な人の10%軽度かもしれませんが。重篤な疾患は、迅速な医療ケアを必要とします。水和(通常はIVで、非常に病気のため)は、患者の病気を存続するための鍵です。
    彼は長期コレラ(以下の履歴を参照してください)長い歴史があり、いくつかの他の病気に割り当てられています。たとえば、家禽や家禽コレラは急速に下痢の主な症状と急速に鶏などの鳥類を殺すことができる病気です。しかし、ニワトリの病気の原因となるエージェントは、パスツレラマルトシダは、グラム陰性細菌である。同様に、豚コレラは(も呼ばれる豚や豚コレラ)発熱の症状、皮膚病変、発作と豚(約15日間で)急速に死を引き起こす可能性があります。

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  8. この冬、仕事も、母の介護も行き詰り、若いころの海外放浪などは非現実的になり、精神的にも追いつめられる中、「コレラの愛の時代」を読みました。20代で読んだ「予告された殺人の記録」はともかく、「百年の孤独」の重層な話にはてんで歯が立たなかったのですが、最近の日常生活の鬱屈が一気に奔流し、まるで19世紀末のコロンビアを旅行するかのような勢いで一気に読めました。GW後半に再読、そしてこの週末に再再読しました。凄い小説です。日本の小説で、比肩できるのは僅かに三島由紀夫の「豊饒の海」でしょうが、奔逸するエネルギー、想像力ではマルケスに分があります。

    再読を進めるにつれ、うん?、と懸念が。小説の虚構上は問題にされませんが、フェルミ―ナとフロレンティーノは、このままどうなるのか?検疫旗を掲げたまま永遠に河を上り下るのか。そして彼に捨てられる形で自殺したアメリカ・ピクーニャ。それを伝えてきたレオーナ。私も自分を振り返り、愛情は時として恣意的で酷薄であると実感しますが、それにしてもアメリカ・ピクーニャに対する彼の態度、というよりアメリカ・ピクーニャの自殺をどう感じているのか、その後の川の上り下りでどう折り合いをつけるのかが気になりました。女心が判っているからこその態度か、それともそのご十字架を負っていくのか。

    どうやら、マルケスはその答えも出しているようです。

    「コレラの愛の時代」に触発されて、10年後に出版された「わが悲しき娼婦たちの想い出」を買い求め、さっそく読了しました。
    コレラも娼婦の想い出も、訳は木村栄一氏。氏は解説で、マルケスが、アメリカ・ピクーニャをうら若き処女に再生させ、アメリカとフロレンティーノを祝福したと読み解いていますが、私も、読みながら思いを同じくしました。

    三島由紀夫の「豊饒の海」では、「春の雪」と「天神五衰」の終章がともに月修寺で対をなし終わり、そこには言葉に尽くせぬ虚無感が漂います。
    しかし、「コレラの愛の時代」を未完の小説として、「わが悲しき娼婦たちの想い出」で補完されると読むと、この小説に登場する91歳の老人はコレラ14年後のフロレンティーノのように見えます。そこには死を、死を終わりではなく、生の始まりとする、マルケスの底抜けに明るい、非常に人間的に楽天的な死生観があります。結果的に、これがマルケスの最終作となったわけですが、作品が微笑を以て終わっているマルケスの力に感服します。このあたりも、「豊饒の有無」を脱稿した日に、割腹した三島由紀夫と対照的にみえます。

    翻訳者の木村栄一先生は神戸外大元学長、私が住む神戸で御存命の御様子。一度、深く話を疑いたくなりました。少しある伝手を手繰って、マルケスの広い世界の話を聞けたら期待しています。

    さあ、次は「100年の孤独」に行こう。還暦を迎えつつある私ですが、社会的空間的にはしがらみがあっても、精神は自由、南米でも19世紀でも旅行ができます。

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